2006.01.18 Wednesday
(以下は転載、リンクOKです。エッセイは非戦を選ぶ演劇人の会の総意ではなく、実行委員個人の責任において書かれています)
「全体主義国家は経済的か?(5)
〜憲法9条は経済的か?(1)「ホテル・ルワンダ」の戦略〜」
映画「ホテル・ルワンダ」を観た。エンドクレジットで流れる歌が印象に残っている。うろ覚えだが、こんな歌詞だった。
ルワンダ ルワンダ〜
アメリカ合衆国のようにアフリカは何故、アフリカ合衆国じゃないんだろう?
キングオブブリテン(イギリス)のように何故、アフリカの王国は一つにならないんだろう?
人々が泣いている イエスも泣いている(ジーザスクライスト)
映画は1994年にルワンダで起きた、大量虐殺(内戦)下で、1268人をホテルに匿った支配人の行動をスリリングかつドラマチックに描いている。
このドラマは実話に基づいている。主人公のポールは、有能なホテルマンで、高級ホテルに滞在する国内外の有力者と面識があり、様々な状況で、駆け引きをしてきた。刻々と変わる現状の中、状況を判断し、機転をきかせ、粘り強い努力と具体的な駆け引きをし(時には、大胆なはったりもかます)、自分の家族と虐殺を逃れてホテルに駆け込んで来た人々の命を救う。
虐殺が起きた背景は、パンフの資料を読むと、複雑で、元々、様々な民族が混在していたルワンダに、フツ族とツチ族という民族アイデンティティーが形成され、ドイツの後ろ盾や、第一次世界大戦後のベルギー支配下での差別助長政策と相まって、政治的、軍事的、経済的に対立が深まっていき、1973年にはフツ族側の軍事クーデターが起こる。軍事政権下で、政治活動の弾圧が続き、1990年、国外に亡命していたツチ族中心の愛国戦線がルワンダに侵攻して内戦が勃発。1992年、大統領は和平のテーブルにつくが、フツ族至上主義者はこれを裏切りとみなし、大統領は暗殺され、フツ族は政権内のツチ族や穏健派のフツ族の処刑を行う。また、政治や軍事のトップによる殺戮だけでなく、フツ族の民兵がルワンダ全土でツチ族の虐殺を始め、3ヶ月で100万人が虐殺された。
フツ族とツチ族は、同じ言葉を喋る。同じ場所に住み、同じ宗教を信じ、結婚も普通にしている。主人公のポールはフツ族だが、妻はツチ族だ。人々は「人為的な民族の帰属制」により、隣人や家族を殺したり、見殺しにする状況に置かれてしまう。そこで、自分や家族や隣人を守るために、どういう手段があるのか?
ポールは、家族やホテルに逃げ込んで来た人々を助けるため、守るため、自分の手にピストルやナイフを握る選択をしなかった。とにかく、あらゆる交渉と駆け引きを続け、国連平和維持軍も世界の主要な軍事大国もルワンダを見捨てる中、人々を3ヶ月、生きながらえさせた。映画を見終わって、とにかく、そのことが、頭とからだに残った。
ポールは最初、ドメスティックな振る舞いをする。自分と家族だけを守ろうとするのだ。これは当然の反応だろう。彼は軍人でもないし、政治家でもないし、単なるホテルの雇われ支配人なのだから。見ている観客も、彼の振る舞いを当たり前のこと、家族愛として受け止める。個人的に面白かったのは、この点だ。彼は、特別なヒーローではないのだ。ホテルマンとしての能力は高く、それが危機を乗り越えるにあたって、役に立つ事に「結果的になるが」、普通の小市民なのだ。そのことに、私達は、感動する。彼の幾つもの選択、咄嗟の人間的な判断が、自分の中にも「あるかもしれない可能性」を、静かに照らしてくれるからだ。(以下、多少ネタバレになるので、映画を見る予定で、映画の展開を知りたくない方は、以下の1段落、とばして下さい)
最初の、そして恐らく決定的だった判断と行動は、家族と近隣のツチ族をホテルに連れて来た際(近隣の人々もホテルに同行させたのは、隣人愛かというと微妙なところで、妻の機転による成り行きに近い)、フツ族の軍に囲まれ、家族を殺せと命じられるところだ。殺せば、お前はフツ族だから助けてやる、という理屈であり、命令であり、提案だ。ポールは勿論、拒否する。愛する妻や子供を殺すことなんて出来ない。だから、命と引き換えにお金を渡すと、交渉をする。彼の必死さと、金額が、軍人の心を動かす。まず妻子が助かる。けれど、全部の隣人を救うためのお金はない。でも、「必死になってしまった」ポールは、銃に怯え身を伏せている目の前の隣人達、自分や家族と同じように脅えている彼らを、見捨てることが出来なくなる。持っているお金を全部出して、また一人助ける。でも、もっと助けたい。考えて、隣人達が所持している金目のものを集めて、また一人助ける。
自分の判断や行動で、人を助けられるかどうかなんて、こうした場合には、予測など出来ない。自分に出来る最大限のことをやった結果、どうなるかは、神のみぞ知るで、裏目に出て、全員その場で撃たれることだって、最悪ありうる。でも、彼は助かった。そして、彼の行動で、多くの人も助かった。
新たな危機に陥る度に、ポールは変化していく。その変化が、見ていて、身に迫る。(ポール役のドン・チードル、良かった!)
よく、反戦平和活動をやっている人達の間で言われることなのだけれど、こうした行動を始めると、足抜けが出来なくなる。休止することはあっても、知れば知るほど、他人の痛みが、自分のからだに残っていき、見捨てたり、忘れたり、ということが出来なくなってくるのだ。実在のポールは次のように言っている。
「自分たちが殺されることはわかっていた。でも、「こんなこと許さない」と言わないで、臆病者のまま死にたくはなかったのです」
虐殺への抵抗とは、なんだろう?相手を殺せば、自分も同じ殺人者だ。
答えるのが難しい疑問だと思っていたが、この映画には、それに対する一つの答えがあると思った。とにかく生き残ること。そして同時に、決して殺し合いを許さないこと。それが、虐殺への抵抗なのではないか。
生き残るための様々な知恵が、この映画の中にはある。武力による紛争解決の放棄を可能にするための手掛かり、と言ってもいい。
ヨーロッパでは過去、姻戚関係にある国王同士の戦いが長い間続いた。アメリカでは南北戦争があり、イギリスでも、日本でも、内戦があった。しかし、今、日本で内戦が起こる可能性に脅える人はいない。けれど、ボスニアやスーダンの例だけでなく、中東や中国やロシアや南米では、まだ、内戦の可能性が消えてはいない。冷戦構造が終わり、国と国が戦争をするということがしにくい状況で、戦争の概念、殺戮の仕組みは、変化している。
内戦に対してこそ、現在の日本の憲法九条の考え方は有効である。今後、そう言える論拠と手段を構築していくことが必要だろう。
(本当は、11年前の1/17に起きた阪神淡路震災と、日本という国の形についても、ちょっと触れたかったのですが、長くなったので、また、稿を改めて、この問題を引き続き考えていく予定です)
くまがいマキ
PS. 経済の話で言うと、この「ホテル・ルワンダ」の日本公開は、観客主導、需要に供給(版権元と配給)が応えた形で実現され、観客が単なる消費者ではない姿を示した例としても面白い。(詳細は、以下のHPを参照)
http://rwanda.hp.infoseek.co.jp/
http://www.hotelrwanda.jp/
ちなみに、私は平日のレイトショーの回を見ましたが、立ち見が出る盛況でした。ヒットするといいな。